ヤクブ・ベク(Yakub Beg, 1820年 - 1877年5月16日) はコーカンド・ハン国出身のウズベク人軍人・指導者。タジク人とする説もある。清末の混乱に乗じて東トルキスタンに入り、タリム盆地一帯を制圧したが、左宗棠に討伐された。中国語では阿古柏と表記する。ヤークーブ・ベクとも表記される。
1864年、東トルキスタン各地のムスリムが清朝支配に対する大反乱を起こすと、コーカンド・ハン国の軍人であったヤクブ・ベクは翌年兵を率いてタリム盆地に入り、カシュガル、エンギシェールなどの清軍駐屯兵を破った。さらに1866年にはヤルカンド、ホータンを占領してタリム盆地西部を掌握し、1870年には東部のトルファン、さらには天山山脈を越えたウルムチをも攻略、翌年にはイリ地方も占領して、清朝の勢力を現在の新疆地方主要部から追い落とした。
当時、大英帝国とロシア帝国は中央アジアの支配をめぐって角逐を繰り広げており、ヤクブ・ベクは英領インドから大量の武器援助を受け、1874年には英国と条約を結んでいる。英国はカシュガルに領事を常駐させた。この条約でヤクブ・ベクはカシュガルとヤルカンドのアミールと称したので、英語ではヤクブ・ベクの王国をカシュガル王国と呼ぶ。彼はまた西トルキスタンのブハラ・ハン国やトルコのオスマン帝国とも通交した。特にオスマン帝国とは、ヤクブ・ベクの政権に対するオスマン帝国の宗主権を認める代わりに武器の援助や軍事顧問の派遣を求める交渉を行い、オスマン帝国から正式にアミールに任じられるなどの一定の成果を得た。
ヤクブ・ベクは、イスラーム的な価値を重視・強調することで地元住民からの支持を得ようとした。その現れとして、東トルキスタンにおいてモスクや聖者廟に対する保護や寄進を盛んに行ったことが挙げられる。その一方、暴力的な統治も行った。また、戦乱によって交易による収入に影響が出たため、これを補うべく高額の税金を搾取したことから、地元のテュルク系住民は「アンディジャンのごろつき」とさえ呼んだ。一説には混乱の中で20万人のドンガン人と5万人のテュルク系住民が殺されたともいわれる。このため、その支配は短命に終わり、1875年清朝の欽差大臣左宗棠が4万の兵力を率いて討伐に来ると、あっけなく滅びた。
ヤクブ・ベクの最期は自殺説と部下による暗殺説がありはっきりしない。
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